最近、お仕事BGMに宇多田ヒカル(以後、ヒッキー)の過去にあったインスタライブを流している。リスナーの質問に対して、ヒッキーが「ヒカルパイセン」として応えていくものだ。
その中で、
「母の死を乗り越えられない。パイセンは、どうやって乗り越えましたか?」
という質問があった。ダマリ自身も母を亡くしているため、この方の気持ちもよくわかったが、ヒッキーがどんな風に応えるか、荒方、想像できた。
ヒッキーはこう応えていた。
「乗り越えなくて良い。山を乗り越えるのではなく、山も風景。山自体が、自分の心の風景の一部になる」
本当に、その通りだと思う。大切な人の死は、「辛い、悲しい」だけの感情では収まらず、いろいろな感情が渦巻いて、取り巻いて、一言では語れない。乗り越えようと思っても、乗り越えられないものだ。
悲しみを乗り越えているのではなくて、その悲しみを自分の一部にする。一部になったと受け入れられた時に、不思議と心が温かくなる。
それから、他の質問で「大切な人が亡くなって、悲しくて、泣いてばかりいる」という方に対しての応えで、ヒッキーが読んだ本に書かれていたことを話してくれた。
「泣くという行為は、その人を讃える行為」
ダマリは、この言葉を聞いて涙が溢れた。
お葬式で、泣いてくれる人がいる。それというのは、その故人を讃えているからこそ。「泣く=讃える」と置き換えるだけで、こんなにも受け取り方が違うんだ。だから、讃えて讃えて讃えまくっていいのだ。涙が枯れるまで讃え、死を受け入れ、悲しみを自分の一部にする。
昨年末、母代わりだった祖母が亡くなった。今でも寂しいけれど、自分も死に向かって歩いているわけだから、またあの世で再会できる。そして何より、自分の守護神が増えたことに喜びも感じる。
人によって悲しみを自分の一部にする時間は違うし、容易ではないけど。その時間は、生きていく上で必要なプロセスだと思うから。そしてそれが、大切な人が身を持って教えてくれたギフトだから。